「一人はみんなのために、みんなは一人のために」を心がけて・・私の歩み
私は、東京の保谷市(現在の西東京市)で生まれ育ち、10歳のときに横浜の戸塚に移り住みました。家族はサラリーマンの父と専業主婦の母、3つ違いの兄、そして女手ひとつで父を育てた祖母の5人家族(他、犬のジョンとねこのピー)で幼少期をすごし、ごく平凡な、典型的な日本の家族?のもとで育ちました。どんな子だったかといえば、母は「内弁慶で頑固で強情な子ども」と私を評していました。
平和への思いの原点
私が、「戦争」という言葉を意識したのは、小学校2年生のときです。担任の先生が読み聞かせてくれた、「ふたりのイーダ」という松谷みよこさんの一冊の童話がきっかけでした。広島の原爆で被爆した椅子をめぐるふたりの兄妹の物語で、家族構成や主人公の女の子の名前が私と同じ「ゆうこ」だったことから、その時代に自分がいるような感覚で、繰り返し読んだことを覚えています。10数年たって、原水爆禁止世界大会に参加するようになってから、この物語をよく思い出します。あの時、先生が「幼かった私たちに何を伝えたかったのか」ということも考えるようになり、私の生き方の原点にもつながっています。
「人が大好き」の原点
進路を決めなければならない高校3年生の時に考えたことは、『自立』と『やりがい』のもてる仕事です。当時は小学校の先生しか思いつかず、教員免許のとれる学校を選択しました。短大だったので授業もびっしり、忙しい毎日でしたが、高校までとは違う開放感が広がり「今やりたいと思うことは、やってみたい」「自分を変えたい」と、一番強く思った時期でした。のんびりと過ごした高校までの生活の時間を埋めるかのように、アルバイトもして旅費を稼いで、短大1年の夏休みには、北海道へリュックをかついで一人旅にでかけました。今は無き青函連絡船に乗り込み、最北端の稚内まで・・この道のりの長かったこと。不安でいっぱいでした。しかし、ユースホステルで宿泊する全国各地から来る様々な生い立ちや経歴をもった人たちと出会って『生き方』を語り合ったこの一人旅は、私にとって自信と勇気を与えてくれる大きな宝物となりました。「いろんな人がいて、人っておもしろい」「人が大好き」「人と出会えるから生きるって楽しんだ」と、学ばされた貴重な体験であり、今につながっています。
「育ちあい」の原点
短大卒業後、友人たちは幼稚園や一般職など就職をする中、私は教員採用試験に再挑戦。教員をめざすにあたって、兄から「勉強になるから」と、あらぐさ教室のスタッフをすすめられ、中原での活動が始まりました。スタッフとして仕事をさせてもらったのはわずか1年。しかし、このあらぐさ教室の出会いは私の生き方に大きな影響を与えました。塾といえば進学塾があたりまえの世の中で、「一人ひとりが主人公」「一人はみんなのためにみんなは一人のために」という理念のもとに、子どもたちと地域での育ちあいを大切にする教育を実践的に学びました。私は、5〜6人の5年生を担当しました。その中で、運動神経は抜群だけど、九九の計算ができなかったS君のことが心に残ります。夜遅くまで九九の勉強にいっしょにとりくんでみて、「わかる」という自信が、どんなにか人を変え成長させることができるのかということをS君を通じて学びました。九九の計算ができることによって、字も読めるようになり、勉強する意欲や生活態度が日々急速に変化していくS君。「どの子にも可能性をもっている」ことを、私自身が学びました。
「世の中を知る」原点
子どもを偏差値でふりわけ、学歴社会といわれる教育のあり方に疑問をもち、「もっと社会のしくみについても学んでみたい」という思いから、青年の要求活動にとりくむ日本民主青年同盟(日本共産党を相談相手にする青年の全国組織)に加わりました。そこでは高校生たちといっしょに「平和」について学び、それを形にしていこうと「はないちもんめ」というバンドをつくって、歌で平和のメッセージ(当時核弾頭ミサイルトマホーク配備が大問題でした)を伝える活動にもとりくみました。こうした活動を通して、戦前すべての政党や団体が大政翼賛会に合流して戦争に参加した中で、唯一日本共産党だけが命がけで侵略戦争に反対したとう事実や「何故それができたのか」etc・・を知り、一番信頼できる政党であるという確信を深めて、22歳で日本共産党に入党しました。その後、縁あって私は東住吉幼稚園に就職し、地域の住吉親子劇場の地域の活動にも参加してかけずりまわる生活が5年間ほどつづき、民青同盟、日本共産党の専従の仕事を経て、今現在に至っています。
今年は、50歳という節目の年をむかえます。あと半世紀は生きるつもりでいるので、日本の社会も私自身も大きな成長をなしとげられるようにみなさんといっしょに歩んでいきたいと思っています。
(コスモス友の会・コスモスレターに寄稿)